自称ADHDは免罪符。言い訳に聞こえる
twitterで、「自称ADHDの人に数人会った。人の話を聞かないことや落ち着きがないことに対する免罪符のようになっていたりという例も多い。」という内容のツイートを見かけました。
私は”免罪符”という言葉にドキッとしました。「あいつはADHDのせいにしてずるい」と私の周りの人も思っているのではないかと想像をしたからです。
このツイートに対してのコメント(リプライ)も読みましたが、同意する人が多かったです。
- 「ステータスでも免罪符でもない」
- 「証明もしていないのに言うな」
特に一番ショックなコメントは「本当にそうだったら言わない。というか言えない。」というもの。本物の発達障害の人は、発達障害であることを自ら言わないし、発達障害を隠しているべきなのでしょうか?
発達障害を人に言えない理由
「本物の発達障害の人は、発達障害であると言わないし、言えない」と発言した人は、どうしてそのように思ったのでしょうか?
その理由は、発達障害は恥ずかしいことで隠すべきという考えがあるからだと私は考えます。
確かに、発達障害の人は普通の人なら当然できることでもできないことがあります。ADHDの私はワーキングメモリが他の人より少なく物忘れやうっかりミスが多いです。失敗して周りに迷惑をかけてばかりいます。
他人に迷惑をかけることはダメであるという前提で考えると、”迷惑をかけてしまう発達障害当事者は悪であり、社会において恥ずかしい存在であり、当然発達障害については他人には言わず隠しておくものである”という論理になります。
害のない人は存在するのか?迷惑をかけないことはありえるのか?
発達障害当事者は迷惑をかけるから悪であるという主張に関して私はおかしいと考えています。
そもそも迷惑をかけない人はこの世に存在するのでしょうか?失敗しない人はいるのでしょうか?発達障害でなくても人間関係に悩むことはありますよね。職場、学校、家庭など相手に迷惑をかけることは発達障害であるかどうか問わずあります。
また、自分は気づかなくても他の人を傷つけることもあります。
例えば、ベランダ喫煙。ベランダでタバコ吸っている人は「誰にも迷惑かけていない」と思ってはいませんか?喘息もちの私にとってはベランダ喫煙は迷惑な行為です。
よかれと思ってベランダで吸っても、煙は壁沿いに流れ家の中に侵入するし、今時の家は換気口が各所に設置されていて窓を締め切っても副流煙は入ります。ベランダ喫煙だけでなく歩きタバコも同じ。
誰でも失敗はするし、誰かに迷惑をかけながら生きています。
迷惑はお互いさま
私たち人間は生きている限り誰かに迷惑をかけます。誰かを傷つけながら生きていきます。
失敗、迷惑、傷つけることを悪とすれば、誰もが悪になってしまうでしょう。さらに、失敗すること、迷惑をかけることを絶対してはならないとすると、完璧を求められ苦しくなってしまいます。
だからこそ、迷惑をかけること、傷つけることお互いさまであるという前提で生きるほうが、みんなが楽になると私は思います。
発達障害があろうがなかろうか、人は誰かに迷惑をかけながら生きています。
迷惑をかけるのはお互い様という価値観を社会みんなが共有していれば、寛容な社会になり、みんなが生きやすくなるでしょう。また、「発達障害を言い訳にしている」「発達障害は甘え」と不満も減るのではないかと私は思います。
発達障害当事者として
私は、世の中では発達障害、ADHDが免罪符にみえるのは理解しているから、できるかぎりミスや失敗を減らすように努力はしているし、発達障害のせいだと言わないようにしています。
それは、発達障害である自分が恥ずかしいからではなく、人間関係でのトラブルもめごとを減らすためです。発達障害であることが言い出しやすいといいのにと思います。